6117-「解死人」について(2)

(1)の補完として桐野氏の御意見を抄録させてもらうと「個人的に興味があったのは、この解死人」がどのように選ばれたという点にあった。たとえば老若のいずれか、未婚既婚のいずれか村内身分の上下のいずれか、あるいは村に居住する被差別民や漂泊者(勧進僧など)も選ばれるかという点である。おそらくこういう時のために解死人候補者が予めプールされているのではないかという気がする」とある。この「解死人候補者が予めプールされているのではないか」という文句には惹きつけられる。しかし

「残念ながら、黒田氏著作ではそのあたりがあまり書かれていなかった。テーマの本筋からはずれるからであろう。もしご存じの方がおいでなら、あるいは参考文献を御存じなら教えて下さい」と桐野氏も物足らなく存じたようである。そして最後に「うーん、やはり戦国時代に生きたくないなと思う。ましてや、自分が解死人にはなりたくないと思った」と結んでいる。この点は筆者も全く同感である。

この「物足らなさ」を補うような記事が藤木氏の「戦国の村を行く」にあった。「犠牲と身代わり」の項である文禄3年近江の岩倉村の村掟『申しさだむる条々」という。即ち

『在所ノしせつ(使節に)行(き)萬ニ一ツ、下し人(解死人)タチ候人ハ、その人のそうにやう(惣領)一人ハ、万年、まんざうくじ(万雑公事)五めん(御免)たるべく物也』こしてこれは

「村同士の争いが起きた時、敵方の村へ危険な交渉に行って、もし万一、解死人(村の身代わり)になって殺されたら、その者の跡取り息子(惣領)には、雑税(万雑公事)を村として永く肩替りしよう、と。村が予想される犠牲に備えて周到な補償の仕組みを作りあげていたことは疑いないであろう」と述べられている。そしてその天正二〇年摂津で用水争いが秀吉の怒りを招き八十三人磔刑が宣告された。という記事が紹介されている。

そのとき村を代表して処刑されたのは、意外にも村々の村長にあたる庄屋自身ではなく、村に養われていた乞食たちが、その身代わりに立たされたという。その犠牲者の一人だった乞食の仁兵衛は、自分が庄屋の身代わりになる代り、自分の子孫たちを、末代まで村の執行部に加えてほしいと、』村の中での身分の扱いを高くするよう要求し村から補償の証文をもらっていた。」と述べている、また1607年とのことだが草刈り場のナワバリ争いから殺傷事件となり、先に手を出した方の村の罪が問われた。その時村の身代わりに立ったのが彦兵衛で、村では仲間はずれにされた身分の低い男だったらしい。彼はせめて息子の黒丸のために名字が欲しいとか、村人たちの信仰や楽しみの集まり(お日待ち)への仲間入りを要求したという」とある。そして結びとして

このようにいつも武装し厳しく身構えていた中世の村は、戦いの犠牲にそなえて、犠牲者の遺児を養育し、田畑の耕作を維持し遺族に補償し課役を肩代わりするなど、実に多彩な補償や報奨のシステムを作り上げていた。それでこそ村は一つになって戦えたのだと納得がいく」と述べている。なおまだ「深い闇の部分」というのがあるがページを改めたい。1289ji6208校正

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6116 「解死人」について(1)

「戦国時代」といえば殺し合いなのだから戦死者の出るのは避けられない。今次大戦でも昨年から戦死者に名誉の戦死から戦犯としての刑死までの評価・認識を巡って国際問題にまで沸騰し未だに鎮静していない。それを思いながら戦国時代の死の評価の一形態ー「解死人(ゲシニン)」について考えてみたい。

まず典拠として黒田基樹氏の「百姓から見た戦国大名」の中の「村の仕組みと戦争」の項から尋ねたい。

「(村の戦争で殺人となった場合)殺害の代償として、相手側に差し出された存在を「解死人」(ゲシニン・下手人)という。被害者側の損害の代償として、その相当の報復を請けるために加害者側から被害者側に引き渡されるものであった。これはただちに実力による報復の展開を抑止し、紛争を平和的に解決するための中世社会における慣行であった。そして解死人はこの場合にみられるように相手側によって殺害される」とある。

 これだけでも鳥肌立つ話だが桐野作人(多分ペンネームだろうが歴史の学者か文芸者と想像される)氏が、そのブログで黒田氏の論述を次のように敷衍しているのに出会った。

村同士の戦争が和睦したり、訴訟沙汰になった場合金銭や物資で解決が図られるが、ときには相手側に死者が出た場合、こちら側も同等のもの、つまり解死人を提出することがある。

辞書によれば解死人は下死人や下手人と同義とされるがこの場合意味が違うようである。下手人なら自ら殺人を犯した本人という意味合いだが、村同士の戦争処理の代償としての「解死人」は必ずしも敵方を殺した本人を意味しない。あくまで相手の死に対して、こちらも適当な人間を相手方に提供することで血の贖(アガナ)いをする行為である」。というのである
(現在の社会で殺人事件が起こると警察はじめ真犯人探しが行われる。つまり殺人に「手を下した人=下手人」ということになろうが、上記の場合「「解死人」は必ずしも敵方を殺した本人を意味しない」という定義が出て来る。そして「こちらも適当な人間を相手方に提供することで血の贖(アガナ)いをする行為」であるとされる。これは現在の社会通念からは理解に難儀させられるのは私一人だろうか。桐野氏はここまでの叙述(続きの部分はページを改める)について次の語句で結んでいる。

この解死人は相手側に引き渡されると、当然リンチを受けたりした後、殺害されるという非惨な運命を辿る。「村」という共同体を守るためとはいえ残酷なやりかたといわざるをえないが、これが我が国の戦国時代の紛うことなき実態だった。」

この短文も厳しい意味を含んでいるように私には思える。敵を倒すための死ではなく、村の存在の継続・安寧のために命をも捧げる。往々「一命を捨てて・・」と言う美辞に幻惑されるが、それが武士なら主君のためといえようが、村の戦いの相手側の死者のために・・の評価・価値観を再考させられる戦国の様相ではあるまいか」と言われているが、この様相が当地では存在しなかったと立証できるのかを先賢者に伺いたく思った。1261ji6208-

9:40

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6115-村の戦争での「犠牲者と身代わり」

これも村の戦い「戦国の村を行く」からの取材である。著者は「その争いは当事者の村ばかりか、合戦・合力といって広く地域の村々をまきこんで戦われるのが普通であった。その互いに協力しあう村々を「クミの郷」とか「ヨリキ(与力)の郷」と言った。合力とか与力といっても無償の奉仕ではなく兵糧の提供はもとより、酒のふるまいから犠牲者への補償まで、助けてもらえばタダではすまなかった。」と前置きしてある。

 「時には、まわりの村々が共同で争いの「中人」として仲裁にも入った。「異見」とか「判状(ハンジョウ)と呼ばれた村々の共同の裁定書には「この旨、ご同心なく候わば中違(ナカタガ)い申すべし」と明記された。「中違い」とは「つきあいはずし」の制裁をいい、もし調停を聞かないと仲間「クミの郷」はずれにするというのである。こうした地域の広く固い結びつきは地域ぐるみの山や水のナワバリ争いの、対立と協力の中から育っていた。」とし、私の関心の焦点「○犠牲と身代わり」に論及される。

○犠牲と身代わり  「村の合戦でも戦えば犠牲が出る。村はそれにどう対処したか。殊に中世末にはその生々しい例が多い。天正17年琵琶湖畔の村々の水田用水争いから武器での殺傷事件「刃傷沙汰(ニンジョウザタ)となり、ついに死者が出た。関係した村々は、秀吉から罪を問われ村ごとに一人ずつの代表(名代ミョウダイ)をだして刑を受けることになった。そのうち 中野と言う村では小百姓の清介という男がなぜか犠牲者に指名されてしまった。死刑を免れないと知った男は岩女という幼いひとり娘の将来を村に託し幾つかの条件をつけた。村はその願いを容れ、次のような2通の証文をその娘に書き与えた。即ち

一、彼(か)の後(あと)職(しき)、ならびに娘の儀、惣村の人、心を相(あい)副(そ)えて養育せしめ疎略(そりゃく)仕(つかま)る間(ま)敷(じ)く候
二、清(せい)介(すけ)かかえの田畠に夫役(ぶやく)の儀、永代(えいだい)に惣村中より、除き申し候」という。その解説は
一は、幼い娘は成人するまで惣村で養育しその田畠や屋敷もそれまで村預かりで維持する。二は、田畠を基準に割り当てられる夫役は、末永く村で肩替りするという」更に

「こうした犠牲者への補償や、村仕事の肩替りの仕組みは、もとから村に備わっていたものに違いない。犠牲者が出るのに備えて、村が予め補償の条件を定めておく、という例があるからである」。とある。

このあと「物臭太郎」タイプの存在意義になるのだが、ここまでで思わせられるのは現代思潮からは人権無視と投げ捨てられようが戦国時代の下層社会のサバイバル=生き残りを懸けた社会保障の施策と思うと拒絶しきれぬ思想とも思わざるを得ない。故にそのようなことが郷土の歴史上には無かったとの史実が立証されるよう関係機関に要望し、その時代に生まれ合わさなかったことを喜びたいと思った。1211ji6208-9:30校正

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6113-「村の戦争」・・当地では?

「戦国時代には「村には村の戦争があった」と聞くが筆者寡聞にして当地でのそれは未知である。下記は藤木氏の著書からの借用の抜き書きであるが、これから察して当地にもこれに類推の事変が皆無であったと断定できるだろうか。多分、記録や伝承が紛失・途絶して史実として継承されていないだけではと思って敢えて取材を羅列判断に供したい。典拠は『戦国の村を行く』の「村の戦いの項から編成してみた。

①応永27年(1420)草刈り場のナワバリ争いで進入者の鎌を奪った。相手は主張の境界に「弓矢とるべし」と木札を立てた。相手も「大勢を引きいて(率いて)用意した」。

②永享5年(1433)山のナワバリ争いがこじれ実力行使となり5人死亡3人負傷した。相手は仕返しに2人を生け捕った、(以上2項「満済准后日記」)

③応永29年(1422)水争いで、夜中に水盗みを企図した。相手は近隣に援軍(合力)要請、大勢が甲冑で武装して妨害した。片方も戦闘(弓矢)の用意をした

④同上年秋草刈り場のナワバリ争いで先方は城(要害)を作り戦闘(弓矢)を用意し蜂起を企図。相手も村の軍勢を集め近隣に合力を要求した

⑤同31年(1424)草刈り場のナワバリ争いで待ち伏せられ暴行された。それに双方の村人が加わって殺し合いの戦闘になった。(ここまでは「看聞日記」に拠る)

⑥15世紀初頭、水争いから「弓矢ニ及ぶ」戦闘となり、負けた村人な自家を自焼(ジヤ)きした。(これは湯橋家文書)

⑦同じ年代琵琶湖畔での「山争い」でそれぞれ合力を求め15人の戦死者をだした。応援してくれた村々に食糧・酒代、犠牲者への補償に「兵糧米50石」「酒直50貫文」という大きな借財を負わされた。(これは菅浦文書)

この結びに「15世紀の村々の事件簿を開くと弓矢・甲冑・合力(援軍)出合(出動)要害・蜂起・」押寄・合戦・打擲・殺害など猛々しい言葉が溢れる。それを繋げば戦い慣れた村々の姿が浮かびあがり、鐘の音一つで行動を起こす素早い条件反射の秘密が解けて来る15世紀以後の村々は互いに農業に欠かせぬ木や草や水を巡って山・野・川で荒々しいナワバリ争いの真っただ中であった。もともと「村の武力」は村々の生活をかけた、苛酷なナワバリ争いの中で鍛えられていたのだった。」と論述されてある。

一読して城を支える農民階層にも相応の戦争が避けられなかった。当地でもその規模の大小はあろうが、例外であったと言い切れないと思いたいがいかがであろうか。そしてその時、領主はどう対応し解決に導うたのであろうか。それと個人的に「犠牲者への補償」とか「協力者への弁償」等戦後処理に村・村民はどうしたのか。それを領主層はどうしたのか。「戦国時代は大名の戦いだけではなかった」ことに着眼・考究したいと思えてきた。1124ji

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6111<mks>「湯起請(ユギショウ)」など

このブログの年頭書初めとして「吉書始め」を選んだ、それは年頭から殺伐の話題を避けたかった単純な思いつきだけだった。ところが今日11日の「今日は何の日」に
【九条政基が湯起請で犯人割り出す】1504年1月11日泉州大木の長福寺で行われた吉書始めで盗難があり、九条政基が湯起請により犯人を割り出すというのに遭遇した。

場所が「泉州」と遠地でのことだが戦国時代のことであり、登場の九条政基と言う人は所謂「筆まめ」だったらしく政基公旅引附』なる著作は「和泉国日野根荘を舞台に繰りひろげられた農山村の日常を、克明に描く・・・」ものと評価されているようである。

前回「吉書始め」としての作文時、政基公旅引附』を取材した水藤真著「戦国の村の日々」なる文庫本は手元にあったが藤木氏の著書に多く従ったのだった。そこへ上記の記事に邂逅、忘却・看過していた水藤本をひもといた。そこでは一月二日から一五日過ぎまで断続だが各地で行われていたようである。

それよりも刮目させられたのが「湯起請により犯人を割り出・・」したということである。この湯起請の確たる定義は未知ゆえ辞書には「罪の実否をただすため熱湯に手を入れさせること」とあるだけだが、それが神社や寺で行われ潔白なら火傷しない=犯人なら火傷するそれが神仏の判決だという非科学的処断方法だったようである。それが本当だったようであるから戦慄する。

その時代に生まれ遭わなかったことを喜び話題を変える。これは藤木氏の著からであるが場所は京都で応仁・文明の乱を挟んだ三十六年間の記録からだとある。その正月における領主と領民の交歓の記録のようである。

一月四日、「地下(ジゲ)の老(ヲトナ)共いで来たり小豆餅を御沙汰し、御酒を給う」という。これは有力百姓が揃って領主の舘に年頭の禮に出向く。彼らは銘々銭百文ほどを献上し、酒や餅をふるまわれたれる「正月四日の儀」とされオウバン(椀飯)ヲトナイワイ(老祝)に連なるらしい。正月七日、七草の「雑炊祝」をすませたら、今度は領主が村に出かけ、村では若者達が迎え村の政所の家で「餅酒」・「ゆかけ」行事をする。とある。

「餅酒」は「鏡の祝」ともいう所謂「鏡開き」だろうが「ゆかけ」はワカユ(若湯)・ユイワイ(湯祝)で、村に来た領主や代官は湯で身を清めた後、鎮守の森に登って神楽を奉納し、初詣をすませる。その後、村の政所に戻り、村の「ヲトナ百姓をまねいて「地下の酒」という酒宴を開く。これらが年頭の領主と村民が酒を汲みかわして互いの結びつきをつよめようとする大切な正月儀礼であった。とある。

以上いずれも地元をはなれた「他所事」であろうが当地にも多分これと同じか類する行事があったと思われるが、私の史実蒐集能力はここらが限界である。ぜひ既に収集・会得された各位の披露と啓蒙をお願いしたい。1164ji

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6103<mks>-「吉書初め」

年頭ゆえ戦国らしからぬ話題を尋ねたところ二つの資料から「吉書(多分キッショと読むと思う)」と「吉書始め」という行事が出て来た。当地には遠地だが同じ戦国時代のこと、当地にも同じか類似の行事があったとしても不思議ではないと思って採取し紹介して批判を乞いたい。

その一は藤真著「戦国の村の日々」という本でその取材地は関西であるが正月二日に「吉書・歯固めの儀式」が行われたとあり、別本は藤木久志氏の「戦国の村を行く」で越後の事でここでは「吉書始め」と言っているが、内容は大同小異と思えるので、こちらの解説を主にしたい。それを抄出してみると

『正月三日の夜の「吉書始め」も興味深い。舘の座敷には領主と家来たちが居ながれ、縁側には、村々の百姓の長老が控え、祝宴なかばで僧が新しい紙に三ヵ条の文言を書く。①祭祀ー領主と百姓は、神社・仏寺を大切にする。②勧農ー領主は、農業の基盤整備に務める。③年貢ー百姓は増産に務め年貢を納める。

書き終わると一同高声で読み上げ武士と百姓と安穏や豊饒を神仏に祈り、互いの責務を確かめあい誓いのお神酒(ミキ)を汲みかわす、この吉書が後の「書初め」になったという。このあと領主側との物品の贈答があったことが記載されているが今は略す。

これらから後北條氏もそれなりの年頭祝事があったと思う。いかに戦国時代でも戦闘・戦術だけでなく” 鉢形城ではこうした”というようなことを教えていただけると心が和むのではあるまいか。しかし私の収集では見つけられず、僅かに県史六の一三七四に持田文書として七カ条の「氏邦印判状」に次の記事を発見した。これは今は深谷市区域だが元は「榛澤郡荒川村で、城下といえよう。その「たゝ(只)澤 もち(持)田四郎左衛門宛てで年中常の心構えとしての布令のようで年頭には限らない命令だろうが、少し親睦・融和を図らうとしていることも察せられ興味を覚える。

「一、正月は毎年四日ニ何(イズレ)も道具持参、御禮申し上ぐべきこと」というのがある。「道具持参で、御禮申し上ぐ・・」との実態は単なる労力奉仕だけなのか、なにか見返りの引き出物でもあったのか教えていただければと思う。そして、その七項目の中に

「一、領主・代官非分(ヒブン)致し候ハヽ其郷一同して目安(メヤス)を書き、大好寺曲輪へもち参、大好寺ニ之を渡すべく候事」というのがある。この大好寺はガイドには大光寺と書かれている大手南の区域と思えるが、具体的にどのようなことを指すのかこれもご教示いただければと切望する。最後は

「右之旨、よくよく相守るべきもの也、よってくだんの如し」とし印は「翕邦挹福」で、亥の六月十日とあり天正十五年のようである。とすれば本能寺の変=神流川合戦のあとで天正十八年の秀吉の小田原攻めまでには、まだ時間があり、氏邦にとっては最高に権力が振るえた年代ではと察したが読者のご批判を仰ぎたい。1203ji6104-9:10補正

 

 

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5z23農村紛争ドキュメント そのモデルとして

自分の史料収集能力には限界があるので先達の労作に負わざるをえないが、類似の事項は郷土にも惹起したに相違ないと思えるからである。それでとりあえず典拠を黒田基樹著『百姓から見た戦国大名』第二章村の仕組みと戦争をとりあげてみた。そらは時=永禄四年(一五六一)、場所=安見郷岩坪村・若栗村、現茨城県阿見町 「湯原尹氏所蔵文書」というから舞台もそれほど隔絶しないと想定した。そのドキュメントは

・岩坪村民が若栗村の村山に入った。若栗村民はそれを咎めて、互いに「棒打ち」という合戦となり若栗村の百姓三人が討死した。
・若栗村は領主波多野山城守に合力を要請した。応じて波多野氏は岩坪村へ押し寄せ村に対し解死人を請求した。
・岩坪村は隣郷の領主土岐越前守に調停を依頼した。
・調停は解死人を出すかわりに岩坪村から百姓が退去することで決着した。

この相論は。山野の領有をめぐり隣接村同士で起こった。そして「棒打ち」しあい死者が出た。課題は山の領有から殺人事件になった。被害者側の領主で土岐氏の給人(所領をもらっている家来)だった波多野氏は加害者側の岩坪村に対し解死人を請求した。
両村は相論を自力で解決できず、その上の領主が報復行動したので未解決で拡大した。

自力解決困難になった時、第三者の仲介が必要になる。この場合土岐越前守である。この近隣領主の仲介による紛争の解決を「近所の儀」といい、中世社会で広く見られた紛争解決法だった。

当地でも昭和三十年代まで続いた町村制度では「村有林」という共有地の外、隣接村と「入会(イリアイ)」の公認地域があって、双方で活用できる建前だったろうが、その好意が時と場合で主権の見解から争われたことは聞かされ、その地域での言動には注意が要ると自ずと分らされたのだった。

その不幸に発展したのがこの場合のようなことだろう。双方が土岐越前守の調停を受諾し解死人のかわりに百姓の退去という解決策だったようだが、そこに出て来る「解死人」がこのことを理解していく重大事項になるようである。「解死人」はゲシニンでゲシュニン「下手人」ではない。故に「解死人」はその行為に手を下した者でなくともよい。という論理が成立して村落存続の安全保障に大きく関ってくる。そして私の主題としたい「物臭太郎」の存在の社会的立場になってくると思えるのである。

このことについてK氏はそのブログ「膏肓記」で黒田説を紹介し、さらに敷衍されていて私には傾聴の話題であるが私の筆力では冗長になりそうなのでページを改めたい。5z31-1048ji

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5z21L<mks>「ヲトナ」を巡って

私事だが私の通学は国民学校の終焉と一緒だった。でも約半数は任意だった「新制中学」へ「進学」した。でも校地も未整備でその造成は地元からの人足(ニンソクという労力奉仕)だった。私は年頭に地区の新年会に酒一升持って「若衆」の仲間入りをした。これが人足の「一人前」扱いの前提だった。

校庭造成の人足に出ると三月までの同級生は社会科とか英語とかの新教科をやっていた。これには劣等感を覚えたが、おとなとしての「一人前」到達は優越感だった。当時人足には「出不足(デブソク)」のシステムがあって後日、出るとか金銭を納めるのだった。だからイチニンマエ到達は大きな画期だった。

ところで「おとな」とは子供でなくなった=子供より成長したことの不文律の公認であろう。しかし「おとな」は小人:大人で区別できない意味合いがあるようである。それは「ヲトナ」とか「乙名」という表記には誤記や宛て字ではなく峻別されるべき概念があったようであるからである。私の得た次の資料の学問的評価は識者にお願いするとして批判されたい。

当時、「村の指導者は『乙名(オトナ)』『沙汰人(サタニン)』があり乙名になる前の若年者を『若衆(ワカシュ)』といった。というのがあり、別の資料には
乙名=市長・町長的な役。沙汰人=議員・役人的な役。若衆=警察・消防・自衛・普請・道路や渡し舟の運航。農業用水の配分管理としているのがありこの方が判り易い。前の資料は
乙名=長老・宿老・老中・年寄ともよばれ村の上位構成員である。元来村落の祭祀の代表を指したが村の結合が宮座で行われたのでそうなった。そして村の運営・調整・交渉に当った。一人ではなく複数人で当った、元名主などの多くの耕地を持つ有力者がなったが、年
功序列の選出が多かった。
沙汰人=荘園領主や代理人として、命令や判決を現地で執行する者を指した。荘園の弱体化と惣村の発達に伴い村の指導層にもなった。また別資料は

惣村間の抗争を調停し、領主に年貢を負けさせる(減額させる)には武力が必要なので侍身分も必要となる、これが「地侍」で半農半士の武装できる有力階級小百姓を巻き込み、それを支配して沙汰人・乙名などに昇っていった者もある。ということである。

以上のような戦国時代の事、井蛙の私には耳新しく響くが地元での関りとすると類似の状態はあったと思えるが具体的には乖離を覚える。それと本当は後北條領内での抗争、そして犠牲者が出た場合の弁償・補償を村同士どう要求し、どう対応して解決したのか。武士が敵将の首や切腹を求めたり、城を焼いたり、開城させて結末をつけるのではない村同士の解決法を尋ねる前提として蛇足したつもりである。1095ji

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5y17L<mwy>「半手」に想う戦国の英雄

(これは一日がかりで自分の思いのたけを書いたものである。)

「年貢の事は長尾景春方へ納め候はば二重成りとなすべく候。よくよくこの趣き含めべく候」これは年無記の11月24日とある長尾忠景書状で県史六が三六としての掲載から筆者が勝手に読み下してみたものである。この不穏な文言の背景をまず蛇足させていただく。

事は文明年代、関東管領の家宰長尾家で当主景信急死の後継者に景信嫡子景春でなく、景信弟忠景を管領顯定が任命したことによる長尾家内の軋轢と言えよう。長尾氏は柴郷という家宰領があり、長尾家は代官を送って統治していたようである。そこへ景信急死で家宰職を継いだと自覚した忠景側は年貢の受領権も自動的に譲与されたと解釈したようである。しかしこの人事が不本意だった景春側は代官を居座らせ、領民からの年貢を受領して忠景側に譲らなかった。これが家宰職移行に伴う長尾家の所謂「柴郷の抗争」であった。

この抗争はそれぞれ経済のみならず、家系の面目が懸ることで調停も試まれたようだが妥結にいたらず年を越え、その上「力者」とある武力を投入する処まで切迫したようである。でも戦端・流血にいたらず景春側が折れ忠景側に無血移行できたようである。私が今回注目したいのは無血移行の推進者の動向である。

冒頭の「二重成り」はフタエナリと読み、敵・味方から年貢を二重取りされることでそれは過酷であった。半手はその防衛だったという。それは攻防二勢力に半分ずつ年貢を納めることで、この方法が大名間にも理解されたようで「その判断は各集落に委ねられていた」という。関西では「半納」と呼ばれて実施されていたという。

ここで一般論になるが「百姓・農民が戦争被害を避けるために取った、したたかな方法」という資料を見てみたい。当時は「敵方に集落を占領されてしまうと、掠奪が始まり年貢の徴税権も奪われてしまう」ので[敵方に米麦・人馬等戦力になりうるものを提供してしまうより焼いてしまえ」という無慈悲は行為が起こり、それまで従っていた領主の兵士に放火され灰燼にされてしまう悲劇だったという。

これを免れる智慧が「半手」なる方策だったという。秀吉もこの方法を認知していたという。集落は戦争が始まれば瞬く間に掠奪に遭う。掠奪が目的の侵攻だと半手はむずかしかったろうが「当時の戦争はすべて掠奪が目的ではなく、敵国の占領が目的だった。そうなればなるべく被害が少ない状態で土地を手に入れたい。それでこの方法がとられた」という

「二重成り」は当地の史料にあるが「半手」の事はない。しかし勢力の境界地域ではあったと思う。そしてその施策の採否は「その判断は各集落に委ねられていた」というのだからこれは村の長老らの協議・決断に拠ったのであって、城の武将ではないはずである。しかしそれぞれ命がけの決断を迫られたはずである。某所が「半手」策で掠奪を免れたとすれば、その策へ誘導した指導者こそ、村を救った戦国の英雄だと私は思いたい。これらの人は顕彰碑を建ててもらえるか、磔台に消えるかで後世に固有名詞を残していないだろう。しかし、歴史の華、戦国史を彩る裏にはかかる英雄の存在に留意するのも責務と思うがいかがであろうか。1318ji-5z20-9:50校正UP

 

 

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5z15L<mks>「嘉吉の変」と郷土史

2013年年末北朝鮮で「粛清」が起こったと報道され、世界中それぞれの立場で動揺させられているといえよう。独裁国家では「政変」とは言わないのか。この場合変わらせない=維持するためだろうが政権争奪であることには変わりあるまい。

近年まで活躍された歴史学者、永原慶二氏が「上杉禅秀の乱」の研究では未だ渡辺世祐氏の業績が越せないと評されているのに出会い刮目させられた。多分「中世関東の流血の全ての原因は「上杉禅秀の乱」に収斂される」との歴史観だと思う。渡辺氏は大正年代と思われる『関東中心足利時代の研究』という論文の論旨かと察する、私はその一部を管見しただけであり、内容の咀嚼・吸収には残念だが消化力が及ばない。ただ所謂「戦記物」を編集しなおしたのでなく古文書など資料に依る論述である。(氏は東大資料編纂所とか言われる部署にお勤めだったと何かで仄聞した記憶がある)

嘉吉の変」については私の論は歴史学的素養はない。物好き的立場でしかないので当然権威はない。ただ「万人恐怖」の執政者、それを除去した暗殺者。この大事件の余波が多く聞かれないのは偏見・偏聴ではあるまいか。私の教わった歴史は「国史」だった。天孫降臨した万世一系の皇国史観に塗りつぶされていた。現人神には「不敬罪」まであったとか。

その日本史の三大転機は「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」だった。何れも天皇親政の実現が主眼だったと思う。それが「登呂遺跡」が天孫降臨に、無二の忠臣楠木正成は「悪党」の棟梁と評価は変貌した。戦国時代の「二君にまみえず」も後の儒教の価値観で臣下それぞれの評価で主を変えるのも信義に悖るものではないとされていた説を傾聴させられる。

「嘉吉の変」を代表するのは室町幕府六代将軍足利義教だろうが当初義円(ギエン)だったが義宣(ヨシノブ)→義敏(ヨシトシ)→義教(ヨシノリ)を経ていた事は未知だった。これには言霊(コトダマ)的縁起を担ぎ朝廷下賜の名も拒み、御神籤の「くじ引き当選」の将軍だったことに自身「神意の現れ」として執政したので臣下は恐怖させられたという。その状景の描写もあるがここでは略すが郷土史にとって略せない事項が略されているように思う。

それは、この将軍選抜に加わりたかったのが鎌倉公方足利持氏であったという。これに漏れた腹いせも多分あったのだろう。その思考・行動が「上杉禅秀の乱」を惹起し、それが「永享の乱」「結城合戦」へと波及し関東の戦国時代が西国に先んじて起こったともいえるのではあるまいか。持氏は京都の室町幕府に対して反抗的態度をとった。そして、その補佐役である関東管領上杉憲實の苦悩があったわけである。諌言をしても入れられず、自殺も未遂に、出家をしてもこの時は戻されてしまった。(この項はここではこれに留める)

関東流血の因を「上杉禅秀の乱」に求める見識も正鵠であろうが、上杉憲實の苦悩も看過できないと見たい。享徳の乱で足利成氏に殺されたのは憲實の長男憲忠であり、その妻は河越の持朝の娘だったという。憲忠の後任としては弟の房顕が当てられ関東管領として五十子の陣にあったが夭折してしまった。その後任が憲實の孫憲房でこの人は形式上は 鉢形城主にもなっている。もっともこのあたりのことは門外漢の管見でしかないから各位での是正を願いたい。ただ「嘉吉の変」からここにいたる動静と北朝鮮の粛清なる動静との異同を察しての私見の批判を乞いたく執筆してみたのみである。1400

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