6115-村の戦争での「犠牲者と身代わり」

これも村の戦い「戦国の村を行く」からの取材である。著者は「その争いは当事者の村ばかりか、合戦・合力といって広く地域の村々をまきこんで戦われるのが普通であった。その互いに協力しあう村々を「クミの郷」とか「ヨリキ(与力)の郷」と言った。合力とか与力といっても無償の奉仕ではなく兵糧の提供はもとより、酒のふるまいから犠牲者への補償まで、助けてもらえばタダではすまなかった。」と前置きしてある。

 「時には、まわりの村々が共同で争いの「中人」として仲裁にも入った。「異見」とか「判状(ハンジョウ)と呼ばれた村々の共同の裁定書には「この旨、ご同心なく候わば中違(ナカタガ)い申すべし」と明記された。「中違い」とは「つきあいはずし」の制裁をいい、もし調停を聞かないと仲間「クミの郷」はずれにするというのである。こうした地域の広く固い結びつきは地域ぐるみの山や水のナワバリ争いの、対立と協力の中から育っていた。」とし、私の関心の焦点「○犠牲と身代わり」に論及される。

○犠牲と身代わり  「村の合戦でも戦えば犠牲が出る。村はそれにどう対処したか。殊に中世末にはその生々しい例が多い。天正17年琵琶湖畔の村々の水田用水争いから武器での殺傷事件「刃傷沙汰(ニンジョウザタ)となり、ついに死者が出た。関係した村々は、秀吉から罪を問われ村ごとに一人ずつの代表(名代ミョウダイ)をだして刑を受けることになった。そのうち 中野と言う村では小百姓の清介という男がなぜか犠牲者に指名されてしまった。死刑を免れないと知った男は岩女という幼いひとり娘の将来を村に託し幾つかの条件をつけた。村はその願いを容れ、次のような2通の証文をその娘に書き与えた。即ち

一、彼(か)の後(あと)職(しき)、ならびに娘の儀、惣村の人、心を相(あい)副(そ)えて養育せしめ疎略(そりゃく)仕(つかま)る間(ま)敷(じ)く候
二、清(せい)介(すけ)かかえの田畠に夫役(ぶやく)の儀、永代(えいだい)に惣村中より、除き申し候」という。その解説は
一は、幼い娘は成人するまで惣村で養育しその田畠や屋敷もそれまで村預かりで維持する。二は、田畠を基準に割り当てられる夫役は、末永く村で肩替りするという」更に

「こうした犠牲者への補償や、村仕事の肩替りの仕組みは、もとから村に備わっていたものに違いない。犠牲者が出るのに備えて、村が予め補償の条件を定めておく、という例があるからである」。とある。

このあと「物臭太郎」タイプの存在意義になるのだが、ここまでで思わせられるのは現代思潮からは人権無視と投げ捨てられようが戦国時代の下層社会のサバイバル=生き残りを懸けた社会保障の施策と思うと拒絶しきれぬ思想とも思わざるを得ない。故にそのようなことが郷土の歴史上には無かったとの史実が立証されるよう関係機関に要望し、その時代に生まれ合わさなかったことを喜びたいと思った。1211ji6208-9:30校正

カテゴリー: Uncategorized パーマリンク

コメントを残す