6116 「解死人」について(1)

「戦国時代」といえば殺し合いなのだから戦死者の出るのは避けられない。今次大戦でも昨年から戦死者に名誉の戦死から戦犯としての刑死までの評価・認識を巡って国際問題にまで沸騰し未だに鎮静していない。それを思いながら戦国時代の死の評価の一形態ー「解死人(ゲシニン)」について考えてみたい。

まず典拠として黒田基樹氏の「百姓から見た戦国大名」の中の「村の仕組みと戦争」の項から尋ねたい。

「(村の戦争で殺人となった場合)殺害の代償として、相手側に差し出された存在を「解死人」(ゲシニン・下手人)という。被害者側の損害の代償として、その相当の報復を請けるために加害者側から被害者側に引き渡されるものであった。これはただちに実力による報復の展開を抑止し、紛争を平和的に解決するための中世社会における慣行であった。そして解死人はこの場合にみられるように相手側によって殺害される」とある。

 これだけでも鳥肌立つ話だが桐野作人(多分ペンネームだろうが歴史の学者か文芸者と想像される)氏が、そのブログで黒田氏の論述を次のように敷衍しているのに出会った。

村同士の戦争が和睦したり、訴訟沙汰になった場合金銭や物資で解決が図られるが、ときには相手側に死者が出た場合、こちら側も同等のもの、つまり解死人を提出することがある。

辞書によれば解死人は下死人や下手人と同義とされるがこの場合意味が違うようである。下手人なら自ら殺人を犯した本人という意味合いだが、村同士の戦争処理の代償としての「解死人」は必ずしも敵方を殺した本人を意味しない。あくまで相手の死に対して、こちらも適当な人間を相手方に提供することで血の贖(アガナ)いをする行為である」。というのである
(現在の社会で殺人事件が起こると警察はじめ真犯人探しが行われる。つまり殺人に「手を下した人=下手人」ということになろうが、上記の場合「「解死人」は必ずしも敵方を殺した本人を意味しない」という定義が出て来る。そして「こちらも適当な人間を相手方に提供することで血の贖(アガナ)いをする行為」であるとされる。これは現在の社会通念からは理解に難儀させられるのは私一人だろうか。桐野氏はここまでの叙述(続きの部分はページを改める)について次の語句で結んでいる。

この解死人は相手側に引き渡されると、当然リンチを受けたりした後、殺害されるという非惨な運命を辿る。「村」という共同体を守るためとはいえ残酷なやりかたといわざるをえないが、これが我が国の戦国時代の紛うことなき実態だった。」

この短文も厳しい意味を含んでいるように私には思える。敵を倒すための死ではなく、村の存在の継続・安寧のために命をも捧げる。往々「一命を捨てて・・」と言う美辞に幻惑されるが、それが武士なら主君のためといえようが、村の戦いの相手側の死者のために・・の評価・価値観を再考させられる戦国の様相ではあるまいか」と言われているが、この様相が当地では存在しなかったと立証できるのかを先賢者に伺いたく思った。1261ji6208-

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