6113-「村の戦争」・・当地では?

「戦国時代には「村には村の戦争があった」と聞くが筆者寡聞にして当地でのそれは未知である。下記は藤木氏の著書からの借用の抜き書きであるが、これから察して当地にもこれに類推の事変が皆無であったと断定できるだろうか。多分、記録や伝承が紛失・途絶して史実として継承されていないだけではと思って敢えて取材を羅列判断に供したい。典拠は『戦国の村を行く』の「村の戦いの項から編成してみた。

①応永27年(1420)草刈り場のナワバリ争いで進入者の鎌を奪った。相手は主張の境界に「弓矢とるべし」と木札を立てた。相手も「大勢を引きいて(率いて)用意した」。

②永享5年(1433)山のナワバリ争いがこじれ実力行使となり5人死亡3人負傷した。相手は仕返しに2人を生け捕った、(以上2項「満済准后日記」)

③応永29年(1422)水争いで、夜中に水盗みを企図した。相手は近隣に援軍(合力)要請、大勢が甲冑で武装して妨害した。片方も戦闘(弓矢)の用意をした

④同上年秋草刈り場のナワバリ争いで先方は城(要害)を作り戦闘(弓矢)を用意し蜂起を企図。相手も村の軍勢を集め近隣に合力を要求した

⑤同31年(1424)草刈り場のナワバリ争いで待ち伏せられ暴行された。それに双方の村人が加わって殺し合いの戦闘になった。(ここまでは「看聞日記」に拠る)

⑥15世紀初頭、水争いから「弓矢ニ及ぶ」戦闘となり、負けた村人な自家を自焼(ジヤ)きした。(これは湯橋家文書)

⑦同じ年代琵琶湖畔での「山争い」でそれぞれ合力を求め15人の戦死者をだした。応援してくれた村々に食糧・酒代、犠牲者への補償に「兵糧米50石」「酒直50貫文」という大きな借財を負わされた。(これは菅浦文書)

この結びに「15世紀の村々の事件簿を開くと弓矢・甲冑・合力(援軍)出合(出動)要害・蜂起・」押寄・合戦・打擲・殺害など猛々しい言葉が溢れる。それを繋げば戦い慣れた村々の姿が浮かびあがり、鐘の音一つで行動を起こす素早い条件反射の秘密が解けて来る15世紀以後の村々は互いに農業に欠かせぬ木や草や水を巡って山・野・川で荒々しいナワバリ争いの真っただ中であった。もともと「村の武力」は村々の生活をかけた、苛酷なナワバリ争いの中で鍛えられていたのだった。」と論述されてある。

一読して城を支える農民階層にも相応の戦争が避けられなかった。当地でもその規模の大小はあろうが、例外であったと言い切れないと思いたいがいかがであろうか。そしてその時、領主はどう対応し解決に導うたのであろうか。それと個人的に「犠牲者への補償」とか「協力者への弁償」等戦後処理に村・村民はどうしたのか。それを領主層はどうしたのか。「戦国時代は大名の戦いだけではなかった」ことに着眼・考究したいと思えてきた。1124ji

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