6117-「解死人」について(2)

(1)の補完として桐野氏の御意見を抄録させてもらうと「個人的に興味があったのは、この解死人」がどのように選ばれたという点にあった。たとえば老若のいずれか、未婚既婚のいずれか村内身分の上下のいずれか、あるいは村に居住する被差別民や漂泊者(勧進僧など)も選ばれるかという点である。おそらくこういう時のために解死人候補者が予めプールされているのではないかという気がする」とある。この「解死人候補者が予めプールされているのではないか」という文句には惹きつけられる。しかし

「残念ながら、黒田氏著作ではそのあたりがあまり書かれていなかった。テーマの本筋からはずれるからであろう。もしご存じの方がおいでなら、あるいは参考文献を御存じなら教えて下さい」と桐野氏も物足らなく存じたようである。そして最後に「うーん、やはり戦国時代に生きたくないなと思う。ましてや、自分が解死人にはなりたくないと思った」と結んでいる。この点は筆者も全く同感である。

この「物足らなさ」を補うような記事が藤木氏の「戦国の村を行く」にあった。「犠牲と身代わり」の項である文禄3年近江の岩倉村の村掟『申しさだむる条々」という。即ち

『在所ノしせつ(使節に)行(き)萬ニ一ツ、下し人(解死人)タチ候人ハ、その人のそうにやう(惣領)一人ハ、万年、まんざうくじ(万雑公事)五めん(御免)たるべく物也』こしてこれは

「村同士の争いが起きた時、敵方の村へ危険な交渉に行って、もし万一、解死人(村の身代わり)になって殺されたら、その者の跡取り息子(惣領)には、雑税(万雑公事)を村として永く肩替りしよう、と。村が予想される犠牲に備えて周到な補償の仕組みを作りあげていたことは疑いないであろう」と述べられている。そしてその天正二〇年摂津で用水争いが秀吉の怒りを招き八十三人磔刑が宣告された。という記事が紹介されている。

そのとき村を代表して処刑されたのは、意外にも村々の村長にあたる庄屋自身ではなく、村に養われていた乞食たちが、その身代わりに立たされたという。その犠牲者の一人だった乞食の仁兵衛は、自分が庄屋の身代わりになる代り、自分の子孫たちを、末代まで村の執行部に加えてほしいと、』村の中での身分の扱いを高くするよう要求し村から補償の証文をもらっていた。」と述べている、また1607年とのことだが草刈り場のナワバリ争いから殺傷事件となり、先に手を出した方の村の罪が問われた。その時村の身代わりに立ったのが彦兵衛で、村では仲間はずれにされた身分の低い男だったらしい。彼はせめて息子の黒丸のために名字が欲しいとか、村人たちの信仰や楽しみの集まり(お日待ち)への仲間入りを要求したという」とある。そして結びとして

このようにいつも武装し厳しく身構えていた中世の村は、戦いの犠牲にそなえて、犠牲者の遺児を養育し、田畑の耕作を維持し遺族に補償し課役を肩代わりするなど、実に多彩な補償や報奨のシステムを作り上げていた。それでこそ村は一つになって戦えたのだと納得がいく」と述べている。なおまだ「深い闇の部分」というのがあるがページを改めたい。1289ji6208校正

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