6111<mks>「湯起請(ユギショウ)」など

このブログの年頭書初めとして「吉書始め」を選んだ、それは年頭から殺伐の話題を避けたかった単純な思いつきだけだった。ところが今日11日の「今日は何の日」に
【九条政基が湯起請で犯人割り出す】1504年1月11日泉州大木の長福寺で行われた吉書始めで盗難があり、九条政基が湯起請により犯人を割り出すというのに遭遇した。

場所が「泉州」と遠地でのことだが戦国時代のことであり、登場の九条政基と言う人は所謂「筆まめ」だったらしく政基公旅引附』なる著作は「和泉国日野根荘を舞台に繰りひろげられた農山村の日常を、克明に描く・・・」ものと評価されているようである。

前回「吉書始め」としての作文時、政基公旅引附』を取材した水藤真著「戦国の村の日々」なる文庫本は手元にあったが藤木氏の著書に多く従ったのだった。そこへ上記の記事に邂逅、忘却・看過していた水藤本をひもといた。そこでは一月二日から一五日過ぎまで断続だが各地で行われていたようである。

それよりも刮目させられたのが「湯起請により犯人を割り出・・」したということである。この湯起請の確たる定義は未知ゆえ辞書には「罪の実否をただすため熱湯に手を入れさせること」とあるだけだが、それが神社や寺で行われ潔白なら火傷しない=犯人なら火傷するそれが神仏の判決だという非科学的処断方法だったようである。それが本当だったようであるから戦慄する。

その時代に生まれ遭わなかったことを喜び話題を変える。これは藤木氏の著からであるが場所は京都で応仁・文明の乱を挟んだ三十六年間の記録からだとある。その正月における領主と領民の交歓の記録のようである。

一月四日、「地下(ジゲ)の老(ヲトナ)共いで来たり小豆餅を御沙汰し、御酒を給う」という。これは有力百姓が揃って領主の舘に年頭の禮に出向く。彼らは銘々銭百文ほどを献上し、酒や餅をふるまわれたれる「正月四日の儀」とされオウバン(椀飯)ヲトナイワイ(老祝)に連なるらしい。正月七日、七草の「雑炊祝」をすませたら、今度は領主が村に出かけ、村では若者達が迎え村の政所の家で「餅酒」・「ゆかけ」行事をする。とある。

「餅酒」は「鏡の祝」ともいう所謂「鏡開き」だろうが「ゆかけ」はワカユ(若湯)・ユイワイ(湯祝)で、村に来た領主や代官は湯で身を清めた後、鎮守の森に登って神楽を奉納し、初詣をすませる。その後、村の政所に戻り、村の「ヲトナ百姓をまねいて「地下の酒」という酒宴を開く。これらが年頭の領主と村民が酒を汲みかわして互いの結びつきをつよめようとする大切な正月儀礼であった。とある。

以上いずれも地元をはなれた「他所事」であろうが当地にも多分これと同じか類する行事があったと思われるが、私の史実蒐集能力はここらが限界である。ぜひ既に収集・会得された各位の披露と啓蒙をお願いしたい。1164ji

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