5908-長六文(ちょうろくぶみ)

群馬県立歴史博物館の企画展示解説の中に「長六文」というのがあり、それに見出しのようなルビがあって余計意味が困惑してしまった。独断だが「長六」は長尾孫六の上下の文字で宗祇が長尾孫六に贈った文のことと判断した。しかし長尾孫六なる人物の地位・人柄は未詳だが目下長尾景春とは別の人と個人的には解している。

上記の典拠は早稲田大学図書館蔵の伊地知文庫としていて『於武州五十子陣所 宗祇在判(改行)長尾孫六殿 進覧候』とあってこの部分は京大のものと同じである。そして解説には「(前略)したがって文正元年1466に上杉氏方の本陣である五十子陣で宗祇が執筆したものを長尾孫六に与えたものだと考えられています。本書は書簡体で、個別的な質問に逐一回答している。きめこまかな技術指導の書と評価されています」とある。

既掲の黒田基樹氏編の「長尾景春関係資料」『1「吾妻問答」奥書写 牧印斎相傳本「吾妻問答」(改行)于時文正第二丁亥三月日 宗祇在判」(改行) 長尾孫四郎殿江』とあり、文正二年で孫四郎殿江となっているので別の人と解した。それと京大の解説に「長尾氏の一族に与えた」というのと「連歌に志の深い彼らの熱意・・」と言う字句から文芸志向が察せられるのである。

これらから「長六文」は少なくも二冊作られ始めのは長尾孫六に、次を長尾景春に贈ったと管見する。年号から景春は二五歳になっている筈というから読破できたと思われる。しかし骨肉の関係だがライバルの太田道灌が文武両道に長けた武将として膾炙されているのに長尾氏の作品そのものが私の手には把握されない。既知の方は歴史館なりとも教示され、歴史館は咀嚼して町民にも示されて長尾氏の文化的側面も紹介いただければと思う。

また別に群馬県立歴史博物館の企画展には「園塵(そののちり)」という句集が宮内庁と京大の資料を並列させて論考し「関東に侍し比、管領亭にて」というのは「関東管領の山内上杉顯定であることがわかります」とある。年代が文明14~16年頃のことが取材されていう。解説文は触れてないがその年代ならば顯定は 鉢形城に入っていたと思えるがいかがか。所収の作に「松と梅とを題にて侍る連歌に『あひに相ぬ五葉の松に八重の梅』」とあるが私には咀嚼吟味が及び兼ねる。作者は兼載という人らしいがどなたかこの事情敷衍していただければ幸甚である。

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