5925-景春の人柄と家庭

『鎌倉大草紙」は景春を「天性腹悪敷男」としているのを、それを強く否定する論がきかれないのを寂しく思うのは筆者の僻みだけだろうか。武将景春については多くの論があろうから、それはそれにお任せして別面から眺めたい。

その資料の一は『御影之記』とする白井長尾氏の記録と黒田基樹氏編の『長尾景春』、その所収荒川村役場編の「長尾景春の生涯」などである。『御影之記』はまず天正十九年に寺の十二代住職の記録を天保元年当時著名な学者黒川春村(ハルムラと読むらしい)が清書しともののようである。

それには『武略智略力量人ニ勝タル勇士也』とあって『鎌倉大草紙」とは大いに違う。これは立場の違いから止むを得ないと思う。景春は景信の子、その父=祖父は景仲とその男系列は歴然だが女性は膾炙されずきたようであるので拾ってみた。

景春は景信の嫡子として嘉吉三年1433に越後府中長尾頼景の娘を母として生まれたという。妻は上野国衆の沼田憲義の姉妹であり、憲義の妻は景春の姉妹という二重の婚姻関係にあったらしいとのこと。

景春の娘は複数いてこの典拠にはそれぞれの論述がされているが今はその一人だけとりあげてみる。そこに「成田信濃殿」と言う人が登場する。この人、武蔵忍領の国衆で忍城主の成田氏のことで近年映画「のぼうの城」で話題をもりあげている一族である。

黒田氏は系図毎の上げた人物の異同、年代との整合性を綿密に検討されていることだけをレポートとし、その項の結びだけをコピーしてみる。

「以上みてきたように、景春の娘とする所傳には他との混同によるとみられるものが含まれていた。あらためてその結果をまとめておくと、沼田顕泰の妻について景春の娘とみることができる以外は那波宗俊妻・横瀬泰繁妻・成田長泰妻は嫡子景英の娘、長野五郎妻は嫡孫景誠の娘とみるのが妥当であろう」とある。

学者としてこうすれば時代と人が矛盾しないようである。そして世代は違っても景春の直系子孫であることに変わりはないろうで、それを勢力といえば広く広まったといえよう。でもその勢力の色合いは同一でなくなっていくが、今は景春の直系の動向に留めておきたい

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