5909ー角田川近くの五十子

群馬県立歴史博物館の企画展解説資料に題のようなページがある。そして難しい字ではないが角田川に「すみだがわ」、五十子に「いかっこ」と丁寧にルビがしてある。多分読み易いが誤り易いのを正しくよんでもらう配慮と思う。

私も荒川の下流はすみだがわになると解していた。しかしそれは墨田か隅田で角田とは連想できなかった。それよりも五十子近くとすれば荒川よりも利根川が思えて現在の荒川下流とは齟齬する。ただ昔は利根川も東京湾に流入していたということだから無関係でもなさそうである。でも現在私にはこれ以上のことは判らない。

本題の長尾景春が宗祇から贈られた『吾妻問答』なる本に戻ろう。館は京都大学文学研究科蔵と早稲田大学図書館蔵の「右此一冊は武蔵国角田川近きあたりに少時やどる事侍りしに、京にて見る人などより心ざし深きさまなる人侍れば、こと問ひかハす事なともつかふまつりしに、弥生下旬之比、宵過る程」の記載の部分を並べ表示している。

そして解説文は「『吾妻問答』は『長六文』と同様に宗祇の連歌論書になります。(中略)本書で宗祇は、連歌史の時代区分や句の読み方などを二〇項目以上にわたって問答体で記述しています」として改行し

「この書は諸書によっては、奥に「長尾孫四郎殿江」とあり、長尾孫四郎殿=景春に与えたものであることがわかります。当時、武士の間では連歌が盛んであり、当時二十五歳ち考えられる景春もこの書を読み連歌を学んだのでしょう」と説明しています。

以下蛇足であるが、四郎とか孫四郎は長尾景春を指すのは想定できたが「孫六」は掴めない。でも「長六文」とは長尾孫六に因る名というから宗祇には景春よりも近しい存在だったと思える。それで某日、ネットで長尾孫六を尋ねた。

でも孫六は通称というか系図には出てこない。ようやく惣社長尾の項に忠景という人物に「1501景棟嗣白井景仲子景信弟長尾孫六左衛門景茂?敬叟皎忠 鉢形城主家宰武蔵上野守護代」というのと「忠政子?孫六良済?、文明頃」 というのが年代から相応するのではと私見した。尚「敬叟皎忠 鉢形城主家宰武蔵上野守護代」の詳細は私には未詳である。

いずれにせよ頼りない私見故、確実なことは歴史館なり図書館なりでお確かめを願いたい。

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